終活の考え方 死ぬくらいでナヨナヨするんじゃない! ~終活大全~

目次
終活についての雑感
「終活」について色々な情報を発信されている人たちがいます。
今は「終活アドバイザー」という肩書もあるようです。
それから、エンディングノートとか終活アプリなんかもあるようですね。
永遠の生命を探求する私が「終活」にどのようなことを考えるかという点ですが、もちろん否定するつもりはありません。
自分の死が周囲の人の負担にならないようにと配慮して計画を立てておくことは良いことと思います。
それから、自分の経験したことなどで周囲の人にとっても大切なこと、どうしても伝えなくてはいけないと思うことがあれば、それを書き残しておくことも大事なことだと思います。
財産があれば、その配分などについて整理しておくことが大事との考えにも頷けます。
それから、身の回りを整理して身軽にしておくことも周囲の人たちへの配慮になりますね。
ですが・・・
不労所得の原理から考える終活
不労所得マニアの私から言えば、十分な考え方だとは思いません。
現実には難しいこともあるかもしれませんが、不労所得の原理から言えば、今、この生きている時にこそ全てを与えてしまうことが終活の価値を最も高めます。
それは人生の質を高めることにもなるし、人生最後の整理にもなるはずです。
もちろん、まだ生きるわけですから、物理的に完全に全てを無くしてしまったら、他人に迷惑をかけてしまいますけどね。
人それぞれに精神ステージが異なるので、生きている時に全て与えてしまうなんてことは受け入れられない人も多いと思います。
それは周囲のお年寄りを見ても、歴史を見ても明らかなこととして認識する場合が多いのではないでしょうか。
それから、自分が苦労した話や辛かった事などを残すことに意味を見出すことも出来ますが、そこから得られたものを同時に伝えなければ、自慰で埋め尽くされた言葉となってしまいます。
不労所得マニアの視点から言えば、それよりも先に今何を残してあげられるのか自分の人生で得たもので何を与えることが出来るのかという点に特化すべきということです。
もし「何もない」と思うのであれば、その視点から何を残せるか考えるべきです。
それぞれの環境や状況によって見えてくることは違うように思います。
「終活」は死に関与したくない人たちが増えてきたということ
「家」という日本の枠組みも壊れてきました。
親に育てられたけれど、中学までしか行っていない。
高校までだ。
大学まで行ったけれど、自分の希望というよりはそのように教育されてきた。
結婚時に家を買ってもらったわけでもない。結婚式の費用は全て自分たちで出した。
そもそも結婚式をしていない。全て自分たちでやってきた。結婚準備で親に支援をお願いしたけれど断られたので親の世話には一切なっていない。
で、遠方に住んでいる親が死んだらお願いねって、正直言ってキツイ。
「終活」くらい自分でやっておいて欲しい。葬式くらい自分たちで何とかして。
いやいや、こっちはフリーター、期間付き派遣で食っていくだけで本当に精一杯。
結婚なんて出来ない。そもそも交通費すら出ない。火葬を役所にお願いしとけばいいのかな。
お墓とか整理しといてね。そんなの維持するお金はない。
正社員だけどフリーターより給料少ないし、そこまで余裕ない。
私は終活するし人に迷惑もかけない。親もそうあるべき。
自分の子に「終活」をオススメされた人へ。
あなたはこのように思われているのです。大なり小なり。
面倒なわけです。あなたの築いた家庭の姿とあなた自身の気持ちはピッタリと調和しているでしょうか。
なぜ、冷たい家族、冷たい社会になってきたのか
他者に先に与えるという姿勢が無くなってきているからということがあると思います。
自分よりも先に自分の子供に。
そういう心意気がなくなり、自分の子供が苦労しているときに助けることもなく、心配することもなく、自分の欲望だけを追求し続けてきた人は特に冷たくされてしまうように見えます。
ですから、こういう人が冷たさを感じるのは仕方ないことです。
そもそも何もないことを「冷たい」と感じてしまうことに問題がありますね。
その冷たさは自分で作り上げてきたものだからです。
自分で自分の死を感じるようになってから、親が駄々っ子に変化しても仕方ありません。
自分たちでこのような家庭環境、社会環境を作ってきたわけです。
そんなことに気が付いたら、今からでも与えるべきを与えておくことです。
「終活」をすべきです。
それが今からでも人生を変えることになるラストチャンスです。
社会に目を向けても一部の弱者だけが得をする政策を当たり前のように実行しようとする政治家がいます。
そこに問題意識すらなく、不公平感が広がっているようです。
これも「冷たさ」の要因ではないかと思います。
その「冷たさ」は色々な形で表れます。
海外で拘束されたジャーナリストを「自己責任」だということで強い批判が浴びせられます。
確かに自己責任だけれども、ここまで大きな話題になること自体が社会の「冷たさ」を示していると言ってよいでしょう。
それぞれの立場で色々な意見が発信されていますが、一部の得をしたい人と得にならない人との争いという領域、ポジトークの領域を踏み越えて、社会として国としてどうあるべきかをもっと考えた上で、それらを理解し共有する姿勢を持つことが大切。
そういった客観的な視点が人生を振り返るときにも、その意味を持たせてくれると思います。
一億総危険地帯ジャーナリスト、写真家を許容するなんてことは国として出来るはずもなく、かといって、自由を担保した国家としてはニッチジャーナリストたちの全てを制限することに価値を見出すことはないでしょうし変わり者が一定数いた方が社会としては健全さを保てます。
一部の変わり者、天才たちが世の中を切り拓いてきたという話にもつながる部分があるでしょう。
日本社会は今、とても冷たい社会になっています。
そして、それらに共通して見えてくることは、まず先に与えるという姿勢の枯渇です。
親子関係で言えば「親」の自己欲求先行姿勢、ニッチジャーナリストで言えば自己願望先行姿勢、そこに対する反作用が生じるのは仕方のない部分も確かにあります。
この背景には「死」を当たり前のこととして感じる状況ではなくなったことがあるのだろうと思います。
「終活」の流行は貧しいからではない
生活が苦しいといったことが強調されることが多いですが、実際はそういったことが理由になって流行っている言葉ではないと私は思います。
貧しくても精一杯育ててくれたと感じている子供は、自分がどんな状況であろうとも自分の親については何とかしようとするはずです。
やはり、「家」という精神が壊れ、それぞれが自分のご都合主義に走ったことによって冷たさが生じているものと思います。
「親」とか「子」という点に意味を見出せなくなりつつあるとも言えるのかもしれません。
ご都合主義は進み、特別貧しくなくても
「ある程度育てたから、あとは自分でお願い。」
「こっちはこっちで遊びたいから、何かあってももう全部自分でやって。」
結婚費用をコツコツ貯めている中で親は何度も海外旅行に温泉に。
こんなことで遠方から葬式ということで一族をまとめるために子供が主体的に動いてくれるだろうという見込みを持てるでしょうか。
「全部自分でやって。」という言葉はブーメランになりますね。
終活でオススメすること
「終活」というワード自体が「家」が壊れたことを示しています。
家族間での助け合いが薄くなってきているということです。
今の時点から他者に出来ることをすること、今の時点で与えられるものは基本的に全部与えておくこと。
死んでからどうするなんて事よりも先にやるべきだということです。
これは不労所得マニアの視点、不労所得の原理から言えることです。
ただし、そこに見返りを求める心があるなら止めた方が良いです。
過去において助け合いを放棄したり、人を騙したりしたこと自体を取り戻すことは出来ません。
取り戻すことが出来ると思っているなら、それで見返りを期待するなら先に与えるという姿勢にそもそもなっていません。
そういった人にはオススメしません。
それでも「終活」は人生の質を上げる
終活で多くの場合に「言葉」をど真ん中に持ってくることが多いようです。
確かに「言葉」は残された家族にとって大切なものになり得ます。
ですが、「言葉」は断面を切り取ることも多いです。
それに「言葉」は操作することも出来ます。
言葉による感動すら「AI」が作り出す時代もやってくることでしょう。
では何が最も価値を残せるのか。
それは「今」の生きているあなたの言動です。
「言葉」が時代を切り拓くこともある一方で、多くの言葉は操作可能です。
言葉と行動。
一体となった存在が発することが大きな価値を作り出すものです。
人は断面を生きたがる
有名な人が書いた本を読んで「なんて素晴らしい本だ」と感じる場合もあると思います。
ですが、実際にその著者に会って話をしてみると全く違う印象を持った経験のある人も少なからず存在すると思います。
本は常に現実の断面を切り取っています。
良いところばかり切り取ってしまうことも多い。
終活において発する言葉は常に自分の言葉かどうか、言葉に使われていないかをチェックしたいものです。
断面だけを切り取った言葉で他人を欺けたとしても、家族を欺くことは出来ませんね。
良い言葉だけで人生を切り取ることには良い効用もあると思いますが、実態と大きな乖離があれば、それはその人生で受け取るべきものを受け取れていないということでもあります。
ですので、質の高い言葉と行動をともなう終活によって、もしかしたら人生についての大きな果実を得ることが出来るかもしれません。
終活 自分のお葬式を準備する
自分の家族、子供たちにも「全部自分でやって」を続けてきた人や、温かい支援を受けることが出来そうにない人は自分の葬儀について必ず自分で考えておきたいところです。
どこの葬儀屋さんで、どの程度の葬儀にするか、実際に自分が死んだ時に連絡して欲しい人なども整理しておきたいところです。
葬儀の生前契約などを行ってくれるところも増えているようです。
家族や周囲の人にも認識を共有しながら準備を進めると良いかもしれません。
家族の負担を減らすための行動になると思います。
終活 一人暮らし、自分が動けなくなった時にどうするか準備しておく
一人暮らしで近くに頼れる人もいない。
頼れる人がいたとしても、24時間何かあっても飛んできてくれる関係ではない。
そうであるなら、自分の身体が思うように動かなくなったり、判断が難しくなったりした場合に助けてくれる人を選定して、相談したり契約したりしておくべきです。
もちろん、金銭管理や身の回りの管理などですね。
これを自分でやっていないと役所が動くことになってしまい結局、親族が残念な気持ちになってしまいかねません。
自分の親たちが遠方で葬儀の準備もないまま、思考力や判断力が著しく低下した場合のことについて、我々の世代はまだ準備が出来ていないはずです。
そういったことも見据えて「終活」というワードが頻繁に使われる言葉になっているように感じます。
もう役所に任せることしかできない、お手上げだと感じている人が多いということだと思います。
終活 お金を大切にすること
お金を稼ぎ、お金を得て、何に使うのか。
自分の死がせまる。
お金をこんなに稼いだのに、全然使えなかった!!!
お金はあるのに十分な果実を得ていない状態。
もっと色々なところに行き、色々な話を聞いて、色々な買い物をしたり色々な遊びをしたり、色々な学問を学んだり、ビジネスをしたり、投資をしたり、寄付をしたり、スポーツや音楽を楽しんだり、、、。
色々やるつもりだったけれど、出来なかった。
実際には少しやってみたけれど、つまらなかった。
楽しくなかった。
で、結果としてお金が大量に余ったまま。
子供や親類には十分過ぎるほど富を分けている。
それでどこでも良いから寄付をしようと考える。
不労所得マニアとしての視点で言えば残念な感じですね。
出来るだけ早い段階で見識を積み、知識を積み、お金の使い道を考えておくべきです。
不労所得の原理から言えば、お金自体が人生の負債になる場合もあるということです。
「お金がある」より「何をしたか」が人生です。
お金があるから、あれも買えるしこれも買える、あれも出来るし、これも出来る。
だから幸せなのです。
人類全体の富を増やすために、あの企業に投資したり、あの人に投資したりする。
だから幸せなのです。
他人よりもお金を持っているけれど幸せを感じることが出来ない人は「お金を持っている」状態でみんなから羨ましがられるから、みんなが寄ってくるから幸せだと思ってしまっているのかもしれません。
ですが、死を目前にしたとき、そこに幸せはなかったと気付くことになります。
お金を大切にするという単純なことではありますが、仕組みを回して行き過ぎた利益を徴収した人ほど、その利益の大きさに溺れてこの単純なことが分からなくなってしまうようです。
最後までお金を大切にするからこそ、大切に使うべきだということです。
終活 自殺はダメ
「終活」は周囲の人に迷惑をかけないため、負担をかけないためにすることですので自殺の準備については「終活」とは言えません。
本気で自殺したいと思っている人には、是非以下の生活関連コンテンツも見て欲しいです。
終活 死で怯えるんじゃない!
終活を通して身に付けるべきこと。
それは「楽観」だと思います。
死を前にして暗い気持ちになって、ウジウジしても仕方ないでしょう。
とりあえず、自分に出来ることは済ませた!
これで周りにも迷惑をかけずに済む!
あとは楽しく生きよう!
死がコワい?お化けが出た!?お迎えが近いのか?
毎日、いちいちお化けの話ばかりしていても仕方ありません。
周囲と自分に与えることを意識して毎日暮らしていきましょう。
死は特別なことではなく、すぐそこにあることです。
ハートの強い人ほど「死」に対して特別な意識を持たないものです。
明日死んでも後悔は全くない。
それが本当に強い人の特徴です。
終活 本当に良い人生だったと言えるか
あぁ、良い人生だった。
いつでも全方位でそう思える。
本当の意味でそう思える領域に到達するためには自分のココロと思考と行動が伴っていないといけない。
そういう道を歩んでいる人はイチイチ、プラス思考でいこう!なんて考えなくても、プラス思考です。
でも、こういう人は本当に稀。
人間はどこかで道をそれて、どこかで反省すべき点があってその道を修正する。
それが本当の道。
悪い事やグレーな事をしながら、前向きにいこう!なんて言っても人生の前では力を持ちません。
ココロの底、身体から湧き上がる幸福感とともに良い人生だった言えるように、終活で自分を見つめ直しましょう。
もしかしたら、自分の中では無い事にしていた本当の自分、モヤモヤしている自分が表れるかもしれません。
そういった自分まで含めて整理して考え尽くして、前を向くことができた時、終活が人生の質を高めたとココロの底から感じることが出来るはずです。
人生の果実を味わう感覚を得て、旅立つことが出来るように終活を意識していきましょう。
終活 次は自分の番
次、死ぬのは「自分の番」。
ドキドキしたり、心配になったり、不安になったり、さみしく感じたり。。。
空虚感に包まれたり、達成感に包まれたり。
日常とは異なる気持ちを感じることになるのかもしれませんね。
ですが、悟りを得た人たちは日常と何も変わりません。
本当に心の奥底から何も変わらないのです。
そして、この悟りの程度はどれだけ明確な形で生死を認識しているかによって、変わってきます。
ゆったりと安らかな心地で逝くこと。
それは悟りの程度も大きく関係しています。
そこでは社会で戦うための努力ではなく、天に向かう努力が大きな力を持ちます。
社会で戦い続けたとしても、天に背き続けていれば何の力も得ていないことになります。
それが明確に示されるとき、それは次死ぬのは「自分の番」と感じた時です。
その時ですら、終活を続けるべきです。
やれることをやる。与えるべき事を与えておく。自分と周囲にです。
終活 悟り
悟りへの道は形式の上で何か特別なことがあるわけではありません。
毎日の誠実な姿勢が全てを決定します。
ただそれだけのことです。
ただそれだけのことが出来ないから悟りに至ることがないのです。
人は何か形を作って、それに自分を当てはめて自分の生きやすいように立ち位置を決めて社会の中で軽快に振る舞おうとしますね。
で、それがキャラ設定されて続く。
良い面もありますが、そこにはこぼれ落ちることもある。
だから、それだけを続けていれば悟りには当然至りません。
学校が、会社が、組織が、家族が、地域が、仕事があります。
色々なところで色々な良い枠組みがありますが、同時に別の場所にもいる必要があるということです。
それが天の下、神の御前、誠実な思索の場です。
終活において特に何を意識すべきかという点ですが、この場所ということになります。
同時に、これは人間教育においても同様です。
教育現場において道徳や宗教は不可欠で優先されるべきだということです。
道徳や宗教心の伴わない学問や知識、経験、技術や地位、処世術など悟りという点では何の役にも立ちません。
それを知るのが死の目前だったのは自分でそれを選択したからです。
そういったことを環境や時代、周囲の人のせいにしてはいけません。
今から、そして来世においては毎日を誠実に歩むように心がけましょう。
(後追記)
自分以外のお葬式。
その場所での振る舞い。
大切だと思います。
私個人はもう火葬だけでいいなという感じですが、もし、自分のお葬式をして人に集まってもらうことを期待しているなら、人のお葬式でもしっかりと見送ってあげることです。
当たり前のことです。
お葬式だというのに、振る舞いや会話内容に配慮の無さすぎることがあれば、あぁ、あの人のお葬式はいいやと思う人もいるはずです。
私はこういった人を複数人見かけたことがあります。
亡くなられた方が高齢だったから出来るだけ明るくというものとは違う不誠実さを明確に感じたことがありました。
ココロが故人に寄り添っていないなら、お葬式には出るべきではないです。
ココロを寄り添い合う関係を築けていない親子関係、親戚関係が増加するなら、続柄に関係なくお葬式は簡略化され続けるだろうと思います。
このことは「終活」の必要性がさらに高まっていくことを暗示していると思います。
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(後追記)
若い人もいずれこの世からいなくなることでしょう。
そんな人生の中で成果を出す。大人の成果は「お金」に結びつくことが多いと思います。
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