永遠の生命 まず感謝を据えよ

自分の生活について、全く感謝するところが無くなったら、その時は人生を変えるべきタイミングだと思います。
正確に言えば、感謝という言葉は出てくるけれど感情が全くついてこないとか、感謝の感情が全くわかない状態であれば、人生を変えるべきだと思います。
どのように変えるかというと、それは環境を全く違うものにすることです。
仕事を辞め、住む場所も変えることですね。
自分が本当に住みたいと思う地域や住みたい家に住むことです。まずはこれを最速で行うことが大切だと私は本当に思っていますよ。
朝、目覚めて感謝の感情が勝手に湧き上がってくる。夜寝る前にも同様に。
この状態になるためには、自分が住みたいなと感じる場所に住むことです。
感謝の気持ちが人生の中心だと私は思います。
感謝しないといけない!なんて考えて無理やり「感謝、感謝」とつぶやいたところで力にはならないでしょう。
勝手に感謝の気持ちが湧き上がってくる。
本当にありがたいという気持ちを感じることが出来る。
そういう環境に身を置くべきです。
それは、人によって全く違う場所のはずです。
官僚、政治家、医師、教師、警察官、会社員、農業、漁業、林業、山ごもりのサバイバル生活者、ブロガー、投資家、起業家・・・。
職業は色々でもちろん良いのです。制約なんてありません。
住む地域だって、それぞれに感謝を感じることが出来ているなら基本的に制約はないはずです。
感謝の感情が全て消え失せてしまっているなら、その人生って基本的に間違った方向に進んでいると私は思います。
だから、そういう時には住む場所にこだわる。
そこに住んでいるだけで「ありがたいな」と感じることが出来る場所に住むことです。
感謝の感情は地域によって得ることが出来るかもしれないし、立派な家や気に入った部屋によって得られるかもしれない。
違う地域で新しいことを始めることによって湧き上がってくるかもしれない。
国を変えることによって得る人もいるでしょうね。
そのような環境に身を置けば、感謝の続きが必ず出てくる。
本当に感謝している場所で起こることは、基本的に感謝の延長線上にあることが多いですからね。
当然、人生はハッピーになっていくというわけです。
永遠の生命を得た状態というのは、降り注ぐ恵みの全てを受け取って感謝に完全に満たされている状態。全てに歓喜している状態。
私はそう考えています。
逆に、感謝の感情が全く無い状態というのは永遠の生命どころか、生命そのものについても価値を見出していない心の状態だと思います。
育った環境が原因で「ありがとう」を本質的に知らない子供があると思いますが、そのような子供が出ないように社会は配慮する必要があるでしょうね。
自然に湧き上がってくる感謝の感情は大自然に対するものであったり、自分の境遇であったり、自分を取り巻く環境であったりすることが多いことでしょう。
意識せずとも、その感情は目に見えぬ何らかの存在を認知しているのであって、そこから明確な宗教心や神への信仰に発展したり、逆に猜疑心へと転化して哲学と宗教の間でもがきながら成熟したり、あるいは人生経験とともに少しずつ発達するのかは人それぞれでしょうね。
どの道を通っても明確になっていくものは、目に見えぬ存在への認知ということになるでしょう。
この存在を絶対的なものとして感性が捉えることの出来なかった人は、差し迫った状態で誰かを助けるためでもなく、自殺という選択肢を取ることがあり得ると思いますが、そのような考えや行動、情感について、この国の保守本流とは一線を画すものであることは申し上げておかなければいけないでしょう。
それでは何を自殺者の感性が絶対的なものとしてしまったのかという点についてですが、それは自分自身です。
そう、ナルシストであるということでしょう。
ナルシストたちは、この死はある種の神への信仰だと言って自殺することもあるのかもしれません。
でも、その精神が捉えている絶対的なものは自分が発信しているものそれ自体であるところに、保守本流との違いがあります。
本来得るべきは、ハッピーで感謝に満たされた状態。
個人だけではなく、組織運営や国家運営においても同様で、これが失われてしまったら、変えないといけませんね。
それも、ガラリと大きく変えなくてはいけないでしょう。
大きな組織であれば、全く違う地域にみんなで移り住むなんてことは出来ませんね。
だから、それまではその組織運営に関与していなかった人にバトンタッチが賢明でしょう。
組織運営の視点で見れば、どちらが勝ったとか負けたとか、そういったことが大切なことではなく、組織として感謝の機能を維持し続けることが一番大切です。
感謝の柱とでも言いますかね。
だから、賢明なリーダーは引き際の大切さもわきまえているものです。
それは謙虚さや誠実さの表れでもあります。
今の時点で日本のリーダーが変更になって最も懸念されることは、金融緩和路線が急激に転換されてしまうことだと私は思います。
金融市場に悪影響を与えないように配慮しながら、この点をしっかりとカバー出来れば、あとはプラス面だけしかありません。
自分のポジションではなく、組織運営、国家運営という視点に立って感謝の柱を復活させ、保ち続けるためには誰に去ってもらい、誰を中心に据えるべきかは、もう明らかでしょう。
この感謝の柱の継続に比べれば、加計や森友問題など極めて小さな問題です。
感謝の柱を立て直すのに、加計や森友問題を細かく分析して調査するという手もあり、これを指摘する人が出てくることは想定できますが、現在のリーダーがこの指摘に対して従順になって、この道を選択し、その道を変えないということであれば、もうそのリーダーだけでなく組織全体が終わったなという感じがしますね。
本当に大切なこと、優先すべきことが何なのか分からなくなっているからです。
加計や森友問題の細かな点について「丁寧に謙虚に・・・」と言い始めた時点でもう終わりの始まりだったと私は思っています。
これはサラリーマン社会ではよくある事なので、特に驚きはしませんがね。これもあれも大切だと言って細々と一生懸命な様子の人が会社に損失を与えていく。こういう様を多くのサラリーマンは実際の現場で見聞しているでしょう。
人生という点で言えば、全てのことに大切な意味があると思いますよ。
ですが、多くの人たちにとって、そこに感謝の機能はもう存在しないのです。
そのような組織に対しては、もう批判すら意味をなさなくなるものです。
匙を投げる。こういう思いを持つ人々が増えることはあらゆる組織ルールにとって危機的な状況になり得ます。
とりあえず、「このあたりでそろそろだな」と言ってあげる役割の人もあることでしょう。
今、日本の政権に渦巻いているものは、自ら発信した情報による自己イメージへの専心。
この光景は私に自殺前のナルシストを想起させます。
そのような未成熟な状態においては「友」が果たす役割は大きいものと思います。
人間として努力を続けてきたことは誰もが認めるところでしょう。
そうであれば、引き際を大切さと、見るべき範囲に関して助言する人の存在も非常に大切なのかもしれませんね。
同情すべきは、今は亡きナルシスト保守論者による誤った教育を受けていた点でしょうかね。
誤りを正す道があるとすれば、話題の夫人にやはり出てもらい、きちんとした形で国民に説明および謝罪をして国民が納得すれば、堅固な道を再び歩む可能性の芽が出てくるように感じます。
それ以外ならば・・・。
もう、ここまで重ねて言う必要もないでしょう。
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